さて、上村松園、伊東深水、あるいは歌麿ときたら、そろそろ私達のヒーローを紹介しなければいけない
甲斐庄楠音。かいのしょうただおと、と読む。
歌麿が、美人画、というカテゴリを作り、松園が大向うにその権威を認めさせ、深水がそれを余裕で引き継いだとしたならば、甲斐庄は美人画に「自我」をもたらした人だ。自我・・・、ちょっと固いっすかねえ?自我でなければ『反省』だろうか。
つまり、人間ってのは、あるいは女ってのは、綺麗なもんばっかりちゃいまっせ、綺麗になりたい、綺麗になりたい、人より綺麗になりたい、モテたい、目立ちたい、醜さを隠したい、ひとよりええめにあいたい、とにかくエゴのデパートみたいなもんでっせ、男も欲望に支配されてますけど、女も似たような欲もエゴもありまっせ、と「反省」するのである。
土田麦僊が甲斐庄の絵を指して「穢い(きたない)」の罵って、公募展への出品を拒否した話は有名だ。たしかに彼の絵はきたない。だが、その「きたなさ」をよく見ると、これは美人画がリアリズムに目覚めた瞬間でもあったのだ。遊女とか舞妓とか、あの白塗りの顔は、たしかに美しいけれども、どこかで「美しい」という記号にもなっている。その記号の通り、美人画と呼ばれるジャンルの絵画たちは従順にその美しさを描いてきたのだが、やはり大正デモクラシーや文学を通して、人の心の深層を感じ考えた甲斐庄の世代はそうはいかない。本当のことを見たいのだ。虚飾の底に隠された本当のナマの人間を見たいのだ。
だから甲斐庄は「記号」で済まさない、白塗りの本当の顔を描いてしまった。
けれどもそれは、人の心の裏の裏の裏まで見ることに慣れてしまった現代の我々に一歩近づいた瞬間であった。それにこうも言える。キレイな女が好きだと言うことは、女そのものは好きではないということだ。着飾って澄まして大人しくしている間は好きだけど、あれこれ打算もしているかもしれない心は引き受けないということでもある。虚飾の下の本当、きたない本当も好きなんですか?という美人画にもなっている、というわけである。
こうした穢い絵で名を馳せた甲斐庄は岸田劉生に「デロリ」とした絵画といい意味で評された。しかし実はこうしたデロリとした作品は全てではない。どちらかといえば穏当な絵も多いし、晩年の娼婦の絵も技法的にはおだやかなものでもある。「美人画」としてのマーケットの需要に応えて作ったとはいえない甲斐庄の仕事は、映画の仕事に転じて長い間停止を余儀なくされて、作品数は案外少ない。そしていわゆる「デロリ」の絵もそうを多いわけではない。
日本画家、風俗考証家。京都市立絵画専門学校(現:京都市立芸術大学)卒業。川北霞峰に師事。卒業制作の《横櫛》を村上華岳の勧めで国展に出品し、入選。以後国展に出品を重ねる。大正期の退嬰的、官能的な美人画を得意とする。また風俗考証家として溝口健二監督の映画制作にも携わった。
秋華洞として二代目、美術を扱う田中家としては三代目にあたります。美術や古書画に親しむ育ち方をしてきましたが、若い時の興味はもっぱら映画でした。美術の仕事を始めて、こんなにも豊かな美術の世界を知らないで過ごしてきたことが、なんと勿体無い日々であったかと思います。前職SE、前々職の肉体労働(映画も含む?)の経験も活かして、知的かつ表現力と人情味あふれる、個人プレーでなくスタッフひとりひとりが魂のこもった仕事ぶり、接客ができる「美術会社」となることを目指しています。