甲斐庄と言えば、土田麦僊によって「穢い絵」と酷評された事件が有名である。だが、その後も「悪魔主義」と呼ばれるような「デロリ」とした画風を貫き、大正期を代表する画家となった。46歳のときに映画の時代考証を担当したことから、監督・溝口健二と生涯の友となる。アカデミー賞衣裳部門にノミネートされるなど活躍したが、溝口の死後、ふたたび創作活動をはじめた。
本作品、《夕化粧》は好評を博した82歳の時の三越で開かれた回顧展の翌年発表されたもの。晩年は飄々と生きる人物の有り様を明るい色彩で描き、乾いた深みのある作風へと変化していった。
しかしながら、三越で開かれた回顧展で楠音が掲げたモットーは「穢いが生きていろ」であり、デカダンス精神は時代を経ても変わらず息づいている。
日本画家、風俗考証家。京都市立絵画専門学校(現:京都市立芸術大学)卒業。川北霞峰に師事。卒業制作の《横櫛》を村上華岳の勧めで国展に出品し、入選。以後国展に出品を重ねる。大正期の退嬰的、官能的な美人画を得意とする。また風俗考証家として溝口健二監督の映画制作にも携わった。
美人画というと「浮世絵」を思い出す方も多いのではないでしょうか。美人画といっても、当時の江戸の風俗を繁栄した浮世絵では、大衆に好まれる「美人像」もめまぐるしく変わっていきます。
青楼とは遊女屋、妓楼(ぎろう)を指す。江戸時代、友遊女は美貌と教養を兼ね備えたスター的存在であり、女性にとってはファッションリーダーでもあった。 滝川は新吉原にあった遊郭、扇屋の遊女。花扇に次ぐ二番手の売れっ子だったという。 歌麿は大首絵で女性の内面の美しさを描こうとしたのに対し、栄之は全身、それも坐像を多く描き、其のポーズから女性の美しさを表現した。旗本の出身であった栄之。高貴な女性や高級遊女を好んで描いたのは武士としてのプライドであろうか。その女性像も時には人形のようにも見える媚びることの無い面持ちも特徴である。
浮世絵師。初め狩野栄川院典信の門人となり、のち龍斎に浮世絵を学び、鳥居清長に私淑する。当初は清長の亜流とも言うべき作風であったが、寛政期には栄之独特の典麗な十二等身美人像を描き、歌麿画にも影響を与えた。肉筆画にも優れた手腕を示し、版画と同じく清楚な画趣を感じさせる作品を残している。
美人画は美しいだけでなく、時代を経るにつれ女性の内面まで描くようになります。西の松園、東の清方と称され日本画の美人画を確立した二人の作品を展示します。
女性の社会進出を嫌う保守的な画壇の中、ただひたむきに絵筆をつづけた上村松園。43歳のときの問題作「焔(ほのお)」や代表作「序の舞」など女性の情念や内に秘めたる強い意志を描いた作品で新しい美人画像を確立する。
烏帽子に下げ髪、水干と紅長袴を着て、手に蝙蝠(扇)を持つ白拍子。本作は、画風には大正期の名残が見られるが、落款から昭和初期頃の作品だと思われる。衣が翻る躍動感、そして扇へと向ける眼差しから、白拍子の次の動きへと意識が集中していく。真摯に舞うその姿は美しい所作だけでなく、芸事に賭ける情熱をも描ききっている。若い頃から古典芸能に関心を抱き、仕舞に学んだ松園の芸事への理解の深さも窺える作品。
上村松園、鏑木清方と続いた美人画の系譜。その後広告やポスター等に美人画が使われるようになったものの、表現が多様化する中、美人画というジャンル自体は途絶えているように見えました。そうした中、現れたのは独自の技法で女性を描く池永康晟です。
ギャラリーで池永康晟さんの画集「君想ふ百夜の幸福」(初版、サイン入り)をご購入いただけます。
ホームページからも注文可能です。