北野恒富は同時代の作家たちから「悪魔派」と揶揄されたという。嫉妬混じりに異風な画面づくりをそう呼んだか、ある種のエキセントリックな個性をそう呼んだのか定かではないが、たいてい同時代の悪口は後の世でむしろ魅力あるキャッチコピーとなるのはいつものことで、最初は皮肉として使われた菱田春草・横山大観に投げつけられた批判としての「朦朧体」とも似ている。
なんの前提もなく「悪魔派」と聞けば現代人はむしろ魅力的な美人画を思い浮かべる。ファム・ファタール、すなわち小悪魔的美人、の連想もできるし、ともかく倫理をかき乱すほどの魅力のある美しい女。恒富の描く異物的な女性像のイメージとちょうどマッチする。
だが、当の恒富本人が「悪魔的」であったかといえば、ちっとも悪魔的ではない。むしろ日本画や人物画を描くものとしての矜持心得を何度も自身に正す、芸術的にはいたって真摯な態度の画家であったと思われる。なにごとも真摯であればあるほど、同時代の怠惰で守旧的な連中に揶揄されるのがこの世の習いであって、そこに多少なりとも恒富の屈託はあったかもしれない。
さて、画家として様々な言葉を残した恒富だが、鏑木清方が「美人画」というよりも「風俗画」という言葉を使いたがったのと同様、美人画家と呼ばれるのを幾分嫌った、と言われている。人物画、と呼ばれるべきだと。
清方と同様、北野恒富は物語の挿絵画家として活動していたし、清方になくて恒富にあった仕事といえばお酒や薬品などのポスター画を描いたことだ。森村泰昌がモノマネを演じてみせたり、池永康晟が今年5月号の月刊美術において言及したのは、彼の代表作とされるポスター画である。それほど魅力のあるものであった。このような仕事をした注文画家であり、大衆画家であったことは、現代から見るとむしろ好ましく思えるし、もちろん彼もプライドを持っていたと思うが、同時に彼は芸術家の矜持として、単なる「美人画」という言葉に自らの作品群を定義づけることによる弊害をどうも気にしていたようなのである。
その葛藤というものは、この時代においてそれなりに重要だと思われる。なぜなら、あるジャンルの虜になってしまうと、芸術というものは、発展を拒み、類型に堕し、紋切り型にはまってしまい、やがては消滅してしまう。現に戦後人物画があまり描かれなくなったのは、恒富の危機感が現実化してしまったともいえるのではないだろうか。
ただ、その意識があったせいかどうかわからないが、北野恒富には美人を描く特定の「型」がない。ポスター画はどちらかといえば油彩画に近いリアリズムの顔だが、版画などになっている輪郭丸顔、目玉黒々の「美人」もあれば、有名な鷺娘のモチーフの若干清方ばりの「美人」、あるいは大阪の富裕層の娘たちを描いた巨匠日本画的「美人」、みな顔の類型が異なる。
それは竹久夢二や鏑木清方など、ほとんどの美人画家が自分の顔を持っているのとは対照的で、残念ながら、このことは北野恒富の仕事をかなり曖昧にしてしまっている。
浮世絵画家でも、漫画家でも日本画家でも、時期によって顔が変わるのは時々あることだが、時期に関係なく、顔の造形がしょっちゅう変わってしまう例はあまり多くない。なぜ恒富美人が造形をしょっちゅう変えてしまうのか理由は定かではないが、市場に出てくる恒富絵画には驚くような名品も、意外な凡作もあり、顔も千差万別なことは、恒富の現在評価の定着を妨げているとは言わざるをえない。
だが同時に恒富のいない美人画世界というものも詰まらない。美人画と言って誰もが思い浮かべるのは、上村松園、鏑木清方、伊東深水なのであるが、美人画というジャンルに深い関心と謎めいた奥深さを感じさせるのは、誰がなんと言おうと、大阪画壇の恒富、甲斐庄楠音、島成園らの一種破壊的活動がなければなかった。
むろんここに東京や九州、その他の地方の画家が華を添えるのであるが、人物画というものにこだわり抜いた人生というものは、私達が感動する一番身近な大自然の一部、すなわち人間への関心という意味で、画家たちの人生と私達鑑賞者の視線が重なり、それはしばしば時を超えて私達に共感と感動を呼び起こすのである。
恒富の仕事はまだその全てがつまびらかになったとは言えない。これからも埋もれた名作というべきものが時折出てくるだろう。金沢の地から出て、何故か大阪に生涯棲み着いたこの気骨ある職人肌の画家はまだまだ万華鏡のように私達を驚かし続けるだろう。
秋華洞として二代目、美術を扱う田中家としては三代目にあたります。美術や古書画に親しむ育ち方をしてきましたが、若い時の興味はもっぱら映画でした。美術の仕事を始めて、こんなにも豊かな美術の世界を知らないで過ごしてきたことが、なんと勿体無い日々であったかと思います。前職SE、前々職の肉体労働(映画も含む?)の経験も活かして、知的かつ表現力と人情味あふれる、個人プレーでなくスタッフひとりひとりが魂のこもった仕事ぶり、接客ができる「美術会社」となることを目指しています。