岡本神草といえば、あの口紅を塗る女だ。艶やかな着物を着て口紅を塗る女。華やかな画面に女の色香が漂う。
だが微笑みながら口紅を手にする女の笑顔は滑稽だ。こんな愚かさがデフォルメされたような「美人画」は他にない。何故神草はこんな絵を描いたのか
この作品「口紅」は実は京都市立絵画専門学校(現在の京都市立芸術大学)の卒業制作だ。20代も前半。同構図のデッサンを同級と思われる稲垣仲静も描いている。 さて何れにしてもこのたったひとつの二枚折りの屏風が、「彼の時代」を作った。このとき彼の狙いはなんだったのか。女に対する興味がもっとも高くなる一方で、経験も未熟なはずの彼が、女の正体を懸命につきとめようとしたのではなかろうか。
彼にはもう1つ代表作がある。「拳を打てる三人の女」。三人の女が手遊びをしている図だ。締め切りまでに完成せず、図の真ん中の部分だけくり抜いて提出したという酷く勿体ない絵だ。
彼の母親が来たので中断を余儀なくされたという。なんだか随分と子供じみた理由に唖然とする。女たちの手の動作が描き込まれ、色は真っ赤に踊り、顔たちは醜さと美しさの間に揺れて、謎めいた魅力がある作品だ。
この2つの作品と、彼の生きた時代の作家たちの一種この時代にしかないエネルギーは、岡本の名前を現代に残した。だが一方で、残念なことがある。
38歳で亡くなった彼は、遺した作品が少ない。しかし若いだけが理由にはならない。同じくらいの命しかなかった菱田春草にはおそらく彼の10倍は作品がある。仕事量が少ないのは何故だったのだろう。かなりの実験精神を持っていた画家だったことには疑いがない。残された作品群を見ていくと、一つ一つの画面に独自の工夫がなされているのがわかる。しかし半ばで諦めてしまった作品も多いようだ。
これではいけない。
ピカソは1932年に集中して絵を描いて、その年だけの展覧会をパリで2018年に行なっている。
一方で、神草の展覧会をどこかの「年」で切ったらどうなるだろう。展覧会など無論不可能だ。何故彼は描けなかったのか、そこも大事な問題だと思う。たくさん描く事は大事だ。上村松園と草間彌生の二人の共通点もここにある。沢山描いてみろ。話はそれからだ。
岡本の魂よ、僕は君の仕事は好きだよ。
でも、もう一度生まれて来たら、今度は沢山描いてくれたまえ。
日本画家。本名は敏郎。はじめ静村と号す。京都市立美術工芸学校、京都市立絵画専門学校(いずれも現:京都市立芸術大学)で学ぶ。大正4年、甲斐庄楠音らとともに密栗会を結成。《口紅》、《拳を打てる三人の舞妓》など舞妓を描いた作品で知られる。大正10年に菊池契月に入門するが、将来を期待されながら38歳で早逝した。
秋華洞として二代目、美術を扱う田中家としては三代目にあたります。美術や古書画に親しむ育ち方をしてきましたが、若い時の興味はもっぱら映画でした。美術の仕事を始めて、こんなにも豊かな美術の世界を知らないで過ごしてきたことが、なんと勿体無い日々であったかと思います。前職SE、前々職の肉体労働(映画も含む?)の経験も活かして、知的かつ表現力と人情味あふれる、個人プレーでなくスタッフひとりひとりが魂のこもった仕事ぶり、接客ができる「美術会社」となることを目指しています。