文学でも音楽でも、秋を題材とした名作は数多あります。
秋は芸術家を刺激し、多大なるインスピレーションを与えてくれますが、画家ももちろん例外ではありません。
視覚芸術たる絵画に直結する豊かな色彩のみならず、空気や気温、音、匂いに味までもが絵の中では表現されます。
描かれた人や動物たちとともに、画家が込めた秋の情趣をぜひ絵の中で”味わって”ください。
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徳岡神泉「深秋図」
薄野で枝に止まっているのは秋から冬にかけて飛来するミヤマホオジロ、空に浮かぶ月を見上げて小さく鳴いているようです。
小鳥と秋の草花は明瞭なかたちをしていますが、細部を見てみると羽や鳥の脚、葉など肌触りの描写はとても繊細です。
月灯りに照らされて絵を彩る、錦木と思われる赤い葉と竜胆の青い花はまた、秋の華やかさと涼しげな寂しさを表しているようでもあり、深まる秋の情趣をよく伝えています。
徳岡神泉「秋趣」
赤く色づいた実を持った蔓草が伸びて垂れた先には二匹の栗鼠がいます。
蔓性の植物は一家が子供に恵まれて永く続くよう祈念して、多産の栗鼠も子孫繁栄の象徴として吉祥の意味合いがあります。
しかし、一般的に栗鼠とともに描かれる葡萄ではなくここでは烏瓜のような赤い実が選ばれ、秋の情趣を色濃いものとしています。
墨と絵具の滲みや掠れの応用によって、朽葉や栗鼠の毛並みの質感が見事に捉えられ、伝統的な画題としてではなく目の前にある詩情を湛えています。
中村岳陵「清秋」
画面中央で宝石のような青色が目を引くのは、美しい鳴き声で知られるオオルリ。
流れるようにしなやかな枝は、赤く染まったものから、まだ染まりかけの黄や橙、夏の名残を感じさせる緑など、多彩な葉によって飾られています。
やがて南方へと旅立つ瑠璃色の鳥は、順々に色づく紅葉に晴朗な秋の訪れを感じているのでしょうか。
調和と均衡のとれた画面には静謐な空気が生まれています。
河原勇夫「柿に小禽」
左側から伸びてきた柿の木の枝に、若草色の可愛らしいメジロが止まっています。
リズミカルな枝の構成と、メジロと柿の葉の緑色の呼応が目を楽しませ、秋の豊かさを感じさせます。
熟した柿のしみや先端が赤く色づき始めた葉の圧倒的な色彩描写は、花鳥画を得意とし、顔料の特性を知り尽くした河原勇夫ならではの技でしょう。
福田豊四郎「柿時雨」
秋も終りを迎え、民家の軒先には干し柿が吊るされています。
柿と同じ橙色に染まった遠景の山々は夕陽に照らされて輝き、画面は実りの秋の喜びに満ち溢れています。
こうした柿いっぱいの情景を時雨と題したのは言い得て妙です。
深い森の中で、小さな焚き火を囲む三人の女性。
木々は遠くに行くほど薄く描かれ、見ている私達の心も紙の中の森に吸い込まれていきそうです。
遠くに見える山は、焚き火を囲む小さな人間たちを見守っているようであり、ほのぼのと温かな気持ちになる一幅です。
三良の焚火とうってかわって、林響の焚火はぐっと近景に寄った作品です。
手前には葉の落ちた秋の木を、中景には焚火に手をかざす老人と、薪を抱える童子が描かれ、立ち上る煙が上空へ消えていく様子が縦長の紙面を巧みに利用して表現されています。
焚火へ至る塗り残された山路や隆々とした岩と苔の描写、左端に少し描かれた木の枝から、焚き火を囲む二人の会話を森の隙間から垣間見しているような印象を受けます。
佐保姫と立田姫はそれぞれ奈良の都の東西にある佐保山と竜田山の女神で、どちらも和歌に多く詠まれ、対の女神としても表されます。
林響は画中においても、花の咲く春の野の前に立つ佐保姫は天平の衣裳、名所竜田川の背後で散る紅葉の中に座す立田姫は平安の女房装束と、それぞれの女神の対比が意識され、芽吹きの春の力強さと、しっとりとした秋の優美さを表現することに成功しています。
しかし、その表情はどちらも物憂げで何処か遠くを見つめているようです。
恋い慕う人に想いを馳せるか、諦めきれぬ心に悩まされているのか、彼女らの表情からは物語が様々に想像されます。
「虫なくや 音すさまじき 古たんす」
夢二の描く可憐な女性たちは、常に誰かを待ちわびています。
冷えた指先を火鉢にかざし、物思いに耽るこの乙女も、いったい誰を待つのやら。
晩秋の窓外には鳴虫の声が響きます。
つがいを求めるその声が物寂しいほど、乙女の胸中には、ひとり身のやるせなさが募るのでしょう。
描かれたのは夢二が40代の頃です。
すでに、多くの「夢二式美人」画のモデルであった「お葉」とも別れ、愛を待つ身の侘しさは夢二の胸にも去来していたに違いありません。
竹久夢二「秋」
婦人グラフ大正13年9月号の表紙を飾った夢二の浮世絵です。
版画ならではの洗練された色数の中で、夢二らしい流麗な線で描かれた美人の横顔が映えています。
お盆にもられた秋の味覚もリズミカルな色彩で、見ておいしい一枚です。
須田剋太「さんま」
秋といえば、食欲の秋。
そして秋の魚と言えば秋刀魚ですが、須田剋太の描く秋刀魚は一味違います。
青魚特有のきらめきが様々な色の青で表現され、エラやぜいごは厚く塗られた油彩によって立体的、まんまるの目はどこかユーモラスで、驚きに満ち溢れています。
二尾並んだ姿は背景と相まって抽象的な美しさも醸し出しており、おもしろおいしい一枚になっています。
山本鼎「菊の花」
秋から冬にかけて見頃を迎える菊の花は、清廉で、どこか儚げなもの。
山本鼎はフランスやロシアで学んだ油彩で三種類の菊を描いています。
特に白菊の花弁は、様々な色合い、表情を見せる姿を紫や黄を巧みに用いて描写しており、凛とした美しさが観るものの胸をうちます。
藤島武二「秋の湖畔」
明治時代に流行した写生旅行は優れた風景画を多く生み出しましたが、この藤島の秋の湖畔も例外ではありません。
色づく手前の岸辺、青く澄み切った湖の水面、雄大な山々と、どこまでも広がっていく秋晴れの空。
湖をぐるりと山々の囲う構図のもとに一体化された秋の景観は、絵の中でふく爽やかな風の匂いまで見ているものに伝えてくれそうです。
小原古邨(祥邨)「萩にウサギ」
秋の代表的な画題である月と、小さな花が野辺に彩りを添える萩の花は秋を彩る風物詩。
ここではもう一つ、「月」と縁の深いウサギの姿を主役に添えて愛くるしい一枚に。
冴え冴えと眩しい月光の下、ボルドーピンクの萩の花と白ウサギの目の赤さが宵闇に鮮やかに映えます。
明治18年(1885)から明治25年(1892)にかけて、月岡 芳年 が最晩年に取り組んだ大作『 月百姿 』のうちの一枚です。
吼噦(こんかい)とは狐の鳴き声のこと。
法師に化けた狐が、月をみて悲しげに吠えています。
芳年は狂言「釣狐」からこの絵の着想を得たようです。
「釣狐」は、猟師に仲間を多く殺された老狐が、坊主に化けて猟師に狐狩りをやめるよう訴えるものの、正体を見破られ、帰り道に仕掛けられた罠にはまってしまうという物語。
本作は、猟師のもとを辞して巣穴へ帰る途中の老狐を描いたものでしょう。
狐はうしろのほうを振り返っていますが、その表情にはどこか哀愁が感じられます。
蒼野甘夏「As time goes by」
森の中にすこしくたびれて座り込んでいるような格好のこの少女の、憂うような表情のわけはなんでしょう。
『As time goes by』という曲の曲調になぞらえて想像しながら描きました。― 蒼野甘夏
SHUKADO CONTEMPORARY 作家
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原崇浩「Hojas muertas」
水中に折り重なるのは色とりどり、形も様々な落葉たち。
水面には、かつてこの落葉を茂らせていたのであろう、今は丸裸の黒い木の枝が映る。
落葉と木の枝は最後の逢瀬を名残惜しんでいるのでしょうか。
何気ない日常、些末な事象であれ、画家の絵筆が奇蹟の一瞬へと昇華させるのです。
リアリズムに徹しながらも、上質な詩情を纏った原作品です。
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