カタログvol.57の伊藤晴雨《瓢箪から駒》はご覧いただけましたでしょうか。
大きな瓢箪からちょろりと駒が飛び出し、その周りには何やら意味ありげな
沢山の人々(?)の姿が描かれたこの一幅。
残念ながら当時の箱がないため、正確な画題は不明となっています。
(晴雨の作品箱がないことはよくあるのですが、伝来途中で失われたのかもしれませんし、
もともと作っていない場合もあるかと思います。)
晴雨の一見すると何気ない作品、江戸風俗が描かれた作品、サラリと描かれた作品に
時にうっすらと、また時にはっきりと込められたモチーフ。
その意味がなんとも分かりづらい。
ですから、お客様に説明するにはじっくり時間をかけた研究が必要。
そう、実は伊藤晴雨はカタログ編集者泣かせの絵師の一人なのです……。
今回はその伊藤晴雨の生い立ちを中心に「そうだったのか!」をご案内いたします。
(次回は《瓢箪から駒》の作品についての一考察をお届けする予定です)
伊藤晴雨は明治15年(1882年)浅草(北千住の説もあり)に生まれました。
父は元旗本の子でしたが没落して彫金師を生業としていました。
晴雨は幼少から絵を得意として、その才能は、
5歳の晴雨が龍の絵を描き、読経を行う姿を見た増上寺の大僧正が、
その見事さに「是非僧侶にするように」と父に申し出たという
エピソードを持つほど。
8歳で琳派の絵師である野沢提雨に弟子入りし、
12歳で象牙彫刻師、内藤静宗のもとで丁稚奉公を始めます。
この時、内藤宅が購読していた東京朝日新聞の右田年英の挿絵を模写して、
絵を学び続けていたといいます。
年英(1863-1925)は月岡芳年門下で、美人画や戦争画、役者絵を得意とした浮世絵師です。
その後、晴雨は絵描きを志し、奉公をやめた23歳頃から芝居小屋に転がり込み
看板絵などを描き始めます。
幼い頃からの芝居好きが幸いして、そこから25歳の頃には新聞社に入社し、
小説や講談の挿絵を手がけ、劇評も連載して人気を博し、絵師としても
認められるようになっていくのです。
晴雨はこの頃から30代頃まで、若い時分の師であった野沢提雨と内藤静宗の
名前から一字ずつとって、伊藤「静雨」と名乗っていました。
挿絵を生業とした当初には、ほぼ独学で挿絵を描いていたためか、
絵が下手だという理由で新聞社を辞めさせられそうになったという逸話があり、
この頃の晴雨は、絵よりも演劇論など文筆のほうに需要があったようですから
その芝居の見る目、知識たるや推して知るべし。
時代考証や風俗研究も行い、劇団を設立し、ときには自作の脚本を
自ら女形として演じたこともあったといいます。
関東大震災後は、沢田正二郎の新国劇に加わるなど、劇界でも活躍します。
もちろん晴雨と言えば、誰もが「責め絵」を思い浮べることでしょう。
妙齢な美女達が島田髷の黒髪を哀れに乱し、様々な責め苦に苛まれる、
このサディスティックにしてエロティックな作品。
30代半ば頃から描き始めたこの「責め絵」により、晴雨の知名度は一気に
高まり、そして現代でも晴雨と言えば、「責めの大家」
「責め」の研究の第一人者としてその功績が語られる存在となったのです。
晴雨が「責め」に興味を持ったきっかけは、
10歳の時の母に連れられた本所寿座で見た『吉田御殿、招く振袖』の竹尾の責め場、
また7歳頃に母から語られた『ひばり山古蹟松』の中将姫の「雪責め」の物語、
など幼少期まで遡れるというから筋金入りの性状です。
ところで最初の「責め絵」のモデルは、晴雨が34歳の時に出会った佐々木カネヨ(永井カ子ヨ)。
近代洋画の巨匠・藤島武二のモデルも務め、「お兼」とよばれて、画家や画学生たちのアイドル的存在であった当時12歳の秋田美人。
奔放な彼女に夢中になった晴雨は、モデルとして、また愛人として惚れ込み、
精力的に多くの「責め絵」を描き、たくさんの「資料写真」を撮影しました。
そして出会ってから3年後、カネヨは晴雨の元を去ってしまうのですが、後に「今私の画いて居る女の顔は彼女の形見である。」と語るほど、晴雨の創作に大きな影響を及ぼした女性であり、またこの時期は大変濃密な制作期間であったことがわかります。
しかし、なんとも惜しいことにその時描いた写生、画稿は戦火に焼かれて、一枚も残っていないのです。
ちなみにカネヨのその後ですが、
晴雨が「此女は後に竹久夢二君が、私の手から奪い取ってしまった」と語る通り、
次に竹久夢二の恋人兼モデルとなり、夢二に「お葉」と名付けられて、切手にもなった夢二の代表作《黒船屋》のモデル、そして数々の「夢二式美人」作品のミューズとなるのです。
さらに余談ですが、夢二と別れた6年後、カネヨは28歳で3歳年上の医師と知り合い結婚。
76歳の生涯を閉じるまで穏やかな結婚生活を送ったそうです。
晴雨に負けず劣らず、こちらもまた劇的な人生ですね。
変わって晴雨ですが、カネヨに去られた後に、妻 竹尾とも離婚。
二人目の妻 佐原キセと結婚し、これ以降の「責め絵」のモデルはほぼ彼女の姿となります。
月岡芳年の《奥州安達がはらひとつ家の図》を再現したかの有名な《臨月の夫人の逆さ吊り写真》もキセをモデルに撮影されたもの。
この時期は地方を訪れての「雪責め」や撮影会など、より実験的な「責め」の創作を重ねることとなります。
しかしながら、大正12年(1923年)の関東大震災によってその生活は一転、
翌年にはキセはとも離婚してしまします。
この未曽有の災害によって、見慣れた町並みが無残に失われたことが
引き金となったのでしょう、この頃から晴雨は、急速に失われゆく江戸の風俗、
芝居や見世物などの研究を精力的に行っています。
綿密に記録した資料や考証画は『いろは引・江戸と東京風俗野史』として出版し、
これは今日でも貴重な資料となっています。
また三人目の妻 とし子を娶り、「責め」の分野でもいよいよ個人的な趣向の
範囲を超え、性風俗研究家・高橋鐵と知り合ったことも加わり、
一層様々な考証、資料の収集にとその研究を徹底していきます。
発禁となった『責の研究』や艶本『論語通解』など、
今尚名著として語り継がれる研究書を次々に発刊したのもこの時期のことです。
その後、結婚期間10年の末、1935年にとし子と死別し、
太平洋戦争がはじまると、前述の通り東京大空襲で家財の一切を焼失し、
今まで撮影した写真、書き溜めた画稿、集めた稀書資料の
すべてを失うこととなります。
それがよほどこたえたのか、戦後はそれまで積極的だった出版も途絶える
ことになりますが、雑誌への連載、エッセイの寄稿、自叙伝の執筆などは
継続的に行われ、生涯「責め」の研究と創作を発信し続けます。
1961年、長女 菊子に看取られながら永眠。享年78歳の生涯を終えた後も、
その稀有な一生を題材として、多くのアーティストが小説、映画をはじめとした
創作の中で晴雨の姿を残し続けています。
では次回は《瓢箪から駒》から、カタログスタッフがいかに悩みつつ楽しんで
作品研究をしているのか、(お恥ずかしながら)ご紹介いたします。
お楽しみに!?
メルマガ 日本美術そうだったのか通信Vol.384 より抜粋しています。
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