一緒に初めて、わが親ながら見直したのは、本当に何でもわかる、という事でありました。プロであれば当たり前のことなのでありましょうが、藤原行成であれ、近衛信尹であれ、江戸末期の儒者であれ、勝海舟であれ、さらにマイナーな書家であれ、殆どの場合、わかってしまう。
わかる範囲がかなり広いということについては、率直に凄いと思いました。
いわゆる「書」「字」については、平安の三蹟(小野道風、藤原佐里、藤原行成)から、近代の書家まで、「落款」をみずとも書き癖だけで、瞬時に判断できる場合があるのには驚きました。
「絵画」については、古画(江戸以前の絵画)から、新画(明治以降の絵画)、油彩画も含めた近代絵画の値踏みもできる。
私が秋華洞の売り文句として時々「日本の10指に入る目利きである弊社会長」などと言っています。書画の鑑識が出来るプロは日本に数百人以上いるでしょうから、あまり誇張はいけませんが、全国からプロと呼ばれる業者の集まる「交換会」という場で、他の業者さんが作者や真贋について判断がつかないもの(とくに古画について)があると、父に尋ねる場面がしばしば有ることを考えると、知識の範囲の広さや、経験値ということで言えば、あながち誇大広告とはいえないと思います。
そういう「鑑識」「査定」が出来ることが商売上いかなる利益があるかといえば、それはなんといっても仕入れの場面です。お客様のお宅に伺って品物を分けて頂く場合にも、業者の競り市で指し値を入れる場合でも、自分の「眼」にどれだけ確かか、そして自信があるかでそのものが「買える」か「買えない」かが決まってきます。
世の中よくしたもので、やはりそのモノの「価値」が自分でわからない限り、買う事はできません。自信がないからお客様に不当に安い値段を言っても譲って頂けませんし、反対に間違って高いお金を出しすぎては、「買う」私が商売を続けられなくなります。
私がこの歳になって、この「眼」を鍛えはじめるのは、常識的に言ってかなり遅いですが、そこは人の三倍努力して切り抜けるしかなかろうと思います。